ギャグとユーモアの違いについて。

2024-08-05 古賀史健

失言、と呼ばれる発言がある。

思わず、うっかりと、どういう理由なのか、つい口にしてしまった不用意な発言。不用意どころか不謹慎な、社会常識から逸脱した発言。だいたいそういう意味のことばだろう。報道レベルでは年老いた男性政治家が口にするもの、と相場が決まっているが、もちろん一般人にも失言はあるし、性差もないだろうし、ぼく自身も口にすることはあるだろう。

で、どうして失言は出てしまうのか。

まず考えられるのは、無知である。人間なら誰だって、思想信条の自由はある。頭のなかで、あるいは胸の奥で、どんなひどいことを考えていようとそれは個人の自由だ。しかし、「言ってはいけない」ことは当然ある。だれかを傷つけたり、差別を助長したり、犯罪や違法行為をあおったり、そういうことは「言ってはいけない」。

そして「言ってはいけない」の境界線は時代とともに変化するもので、時代を知らず、社会を知らず、むかしながらの「おれの村」のなかで生きている人は、それが「言ってはいけない」ことであると知らないのかもしれない。無知ゆえに、失言してしまうのかもしれない。


しかしそれは理由の一端でしかなく、意外におおきいのは「あせり」じゃないかと思うのだ。

たとえば、政治家が支援者の前でスピーチをする。自分はあまり話が上手じゃない、というコンプレックスがある。実際、みんな黙って退屈そうに聞いている。ああ、どうしよう。だから嫌なんだよ、こういう挨拶をするのは。などとあせった政治家がつい、ウケようとする。笑いを取って、場を盛り上げようとする。しかし彼にその話術はない。そこで安易なギャグを、たとえばダジャレを、下ネタを、あるいは差別的なことばを、笑わせようと口にする。それが彼なりのギャグであることを察した聴衆は、愛想笑いをする。彼はウケたと思う。よし、これからもこうやってギャグを交えよう、と思う。そうして安易なギャグのつもりで、場を盛り上げる発言のつもりで言ったことばが、失言となる。

政治家のスピーチにかぎらず、飲み会でのあの人、と置き換えて考えても、こういう人は非常に多い。


半年近く前、書体デザイナーの鳥海修さんの授業を観覧した。

書体をつくるひと。書体デザイナー・鳥海修さんの仕事 | 鳥海修 | ほぼ日刊イトイ新聞 ヒラギノや游書体など、私たちが日常的に目にしているさまざまな書体づくりに関わられてきた、書体設計士の鳥海修さんのインタビュ www.1101.com

その日の日記にぼくは「落ち着いていて、自信とユーモアがあって、とても素敵な方だった。自信、落ち着き、ユーモア。その順番が大切なんだろうな」と書いている。

自分という人間に自信を持っている。自信があるから落ち着きが出る。落ち着きがあるから(ギャグではない)ユーモアが出てくる。

日常におけるギャグとユーモアの違いをずっとことばにしたかったのだけれど、センスや才能の話ではなく、おそらく「自信の有無」なのだと思った。多くの場合ギャグは不安を覆い隠す逃げの一手でしかなく、ユーモアとは、落ち着きのある人が差し出すサービスなのだ。

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