弁舌の技術よりも大切なもの。

2023-08-03 古賀史健

ぼくはフランス語ができない。

と書くと、英語がペラペラであるかのように思われるかもしれない。しかしながら当然、英語もできない。それでもまあ、中学高校の教育課程で学んだのだから、フランス語に比べたら多少マシだろう。はじめてフランスを訪れたとき、書かれたことばや語られることばの記号感に、笑ってしまったのを憶えている。なにひとつわからないのだ。

しかしながら「わからない」で済ませられないのが個人旅行というものである。たとえば安宿に泊まる。受付でのんきにテレビを見ているおじさんと、なんとかコミュニケーションをとらなければならない。おれはここに泊まりたいのだ、部屋は空いてるか、料金はどれくらいなのか、などを伝え、向こうの言っていることを理解し、一定の合意形成を図らなければ泊まる場所すら確保できず、文字どおり路頭に迷ってしまう。誇張ではなく、これは生死に関わる問題だ。

そしてそういう場合においてぼくらは、お互いおぼつかない英単語を並べながら、最大限に相手の意図を汲み取り、理解に努めることになる。だってそうだろう。こちらはフランス語を解さず、向こうは日本語を解さないのだ。相手の語るたどたどしい英語がどれだけ聞き取りづらくとも、ひたすらじっと耳を傾け、「こう言ってるのかな?」「こうしてほしいのかな?」と想像をめぐらせる。根気づよく。ひたすら根気づよく。


ところが日本語をあやつる日本人同士になるとわれわれは、簡単に「話が通じない」とさじを投げてしまう。わかろうとする努力を、放棄してしまう。異国の地で発揮していた根気が、ほとんどゼロになる。いったい、なぜだろうか。

ソーシャルメディアを覗いていると、自分と同じ意見を持つ仲間が、わりと簡単に見つかる。孤独を感じやすい社会において「ここに仲間がいる!」と思えることは、なによりもありがたい安全弁だ。ソーシャルメディアがもたらす最大の恩恵と言っていいかもしれない。

しかし一方、仲間が簡単に見つかりすぎることのデメリットもまた、確実に存在する。頭のなかが「100かゼロか」になりやすいことだ。「自分と同じ意見の人」か「それ以外」か、になってしまうのである。

自分と少しでも意見の合わない人を見つけると、排除したり、えげつないことばで攻撃したりする。しかも仲間たちみんなで、それをやる。このへんはもう、頭のなかが「100かゼロか」になっている証拠だろう。対立や分断はだいたい、「100かゼロか」の発想から生まれるものだ。


だったらいっそ、こう考えてはどうだろうか。

話が通じない相手は、みんな外国語を話しているのだと。旅先で偶然に出会った、現地のおじさんなのだと。話が通じないのはあたりまえだし、大事にしている文化風習も違う。おれのルールを押しつけるわけにもいかない。

けれど、同じ場所で同じ時間を過ごす以上、無視や排除で終わらせるわけにもいかないだろう。「おぼつかない英語」のような、たどたどしい共通言語でのコミュニケーションが必要になってくるだろう。どんなにもどかしかったとしても。

あきらめるのは、まだ早い。フランスのおじさんとだって、合意形成は可能なのだ。問題は、相手をわかろうとする意志であり、根気である。そしてなにより「いつもの日本語」から降りる勇気である。

弁舌の技術よりも、けっきょく根気が大事なんだよなー。と、最近思うのである。

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