ピアノの先生
2023-05-07 きなこ
私と同じくらいの年頃で「結構ちゃんとピアノを習っていたの」という人に会うと、その人は大体こう言う。
「そのピアノの先生っていうのがもう…鬼のように恐ろしくってさあ!」
私の想像の世界の『ピアノの先生』というのは、ボウタイブラウスのリボンをキュッとちょうちょ結びにして、柔らかなシフォンかちょっとすましたヘリンボーンのロングスカート、髪はくるりと上品に巻いて、優しい午後の日差しの注ぐ教室の中、レース編みのカバーのふんわりかかったアップライトピアノでバイエルやブルグミュラーを教える、そういう感じの人だと思っていたのだけれど。私の知人に3人いる、元・ピアノ少女の『ピアノの先生』は
「間違えると『オメーを取って食う…』ってオーラが背中からアリアリと出ていた」
のだそうで、過去にジュニアコンクールなんかでちょっとした受賞歴があって、音楽の関係の学校を出ているその3人は、出身も今住んでいる場所も年齢もそれぞれ違うのだけれど「もしかしてみんな同じ先生に習ってたんか?」と聞きたくなるほど皆同じことを言っていた
「まあ昔のハナシだけどねー」
なんて笑いながら。
さてその昔、私もピアノを習いたいと思ったことがあった。あれは確か5歳とか6歳とかそのくらいの頃、当時通っていた保育園のクラスの中で一番可愛いマミちゃんという女の子が
「最近ピアノを習い始めたの、ピアノも家にあるんだよ!」
と言っているのを聞いてひどく羨ましくなり、今の私よりもずっと若かった母に「ピアノを習いたい」とおねだりをしたのだ。普段放置されがちな3人きょうだいの真ん中の私が親にお願いごとをすることは、とても稀なことだった。
しかし町にひとつだけあったピアノ教室のチラシを握りしめた私を目の前に、当時まだ30歳と少し、丁度念願の家を手に入れたばかりだった母は、
「うちには今、そんなおは金ないのよ」
たいへんに容赦のない、そしてものすごく現実に即した回答を私にくれたもので、お陰で私の「マミちゃんのように長く伸ばした髪で、ふんわりとしたスカートで、ぴかぴかのピアノを弾いたらどんなに素敵かしら」というささやかな夢は雨の日の花火のようにしゅるしゅるしぼんでそれ以後、私はピアノのことを一切口にしなくなった。
中間子は、諦めが早い(当社比)。
そうしてリストにもショパンにもラヴェルにも、白黒の鍵盤の上ではついぞ出会うことのないまま、大人になり、日々の些事に流されてピアノのことはすっかり忘れていたのだけれど、今11歳のうちの真ん中の娘が幼稚園の年長の時
「ピアノを習いたい」
なんて、いつかの自分のようなお願いごとをした。それでかつて自分がピアノ教室のチラシを握りしめて、一生懸命母にお願いをした日の気持ちを突如思い出した私は反射的に「わかった、まかせろ」と胸を叩いた、
のではあるけれど、調べてみると近くにある音楽教室はエレクトーンの集合レッスン形式のもので、その上それだと親同伴。私も夫も楽譜なんてロクに読めないし、娘はあくまで「ピアノを習いたい」と言っているのだし、だったらピアノの個人レッスンとかになるのかしらん、それってなんぼかかるのん、うちはホンマにフツーの勤め人の家なのやけれどもと、ひとりで頭を抱えていた時、たまたま買い物中に会った息子の同級生のママが
「それやったら、うちの子が習ってる先生を紹介してあげる」
と言ってくれた、近所に口コミの紹介だけで10人程の生徒を教えている先生がいるのだとか。なにその素晴らしきご近所ネットワーク。
聞けばお月謝もそこまで魂が飛ぶようなお値段ではないし、大変に有難いハナシだった。でもその時ふと、私はかつて3人の知人が3人中『ピアノの先生は世にも厳しく恐ろしい』と言っていたことを思い出して不安になり
「それって一体どこのどなたでどんな人?怖い?うちの子すごい人見知りな上、ビビりやし、私はピアノのことなんかひとつも分からんのやけれど…」
と聞いたら、ご近所情報についてはその辺の公安よりも詳しい情報通のそのママは
「全然怖くないよ、むしろ面白い。家のリビングにグランドピアノがバーンと置いてあってな、そこを机みたいにしてはるねん」
なんてことを言うもので、私は今度は困惑した。なんすかそれ。
その上、その巨大なピアノの鎮座しているお住まいはウチとそう変わらない造りの近くの団地だそうで、ピアノ教師というのは、モッコウバラの咲くお庭のある家に住んでいるものじゃないかと大変勝手に思っていた私は、それはピアノの先生が戸建てに住んでいないといけないなんて法律はないのだけれど、困惑しつつまあでも怖くない先生ならと、そのママにお願いして、先生に連絡を取ったのだった。
『もうすぐ6歳になる娘にピアノを教えていただけないですか』
果たして、お友達に紹介されて我が家にやってきたタナカ先生(仮名)は、化粧っ気のない素顔に近いお顔で頬にはそばかす、お召し物はTシャツとデニム、長く伸ばした髪は無造作に首の後ろでひとつに束ね、家から「一掴み入れてきました!」って風に楽譜のぎゅっと詰まった巨大な帆布のバッグ抱えた、完全に『近所の奥さん』という感じの人だった。
そしてあの同級生ママの言っていた通り、先生はホントに全然、怒らなかった。
生来大人しくて内気で、同時にひどく頑固でもある真ん中の娘は、単調な練習を嫌がってほとんどやらない子で、私が「レッスン前に少しくらい練習を」と言ってもやりたくなければ本当にやらない。お陰様で地を這うような速度でしか教本は進まなかった、それで
「ほんまにこんなんでええのでしょうか…」
先生から破門されることを恐れて、私は先生に一度そう聞いたことがあるのだけれど、先生はにっこりと向日葵だってこうは明るく笑わないやろうって笑顔でこう仰った。
「音楽は一生のお友達だから、今、キライにならないようにしていてほしいんです」
とにかくまずはピアノを大好きになって、音楽と仲良くしてほしいからと、娘がどんなにのんびりとレッスンを受けていても、テンポがどんどんずれて鍵盤の上の指がメトロノームに置いていかれても「アラ~違うわよぉ~」なんてのんびりと言うだけ、聞いてるこっちがどんなにイライラやきもきしてもひとつも叱らず慌てず40分。
それを毎週積み重ねて、娘と先生の師弟関係は今年でもう7年目になった。
でも面白いことに、娘の教本がうんと小さな子供用のものからやっとブルグミュラーになり、ちびっこピアノ業界ではあまりにも有名なあのお髭のおじさんが「や、どうも、おじょうさん」なんて感じにピアノの譜面台の上にやってきた頃、娘はピアノを「ずーっと続ける、中学生になっても高校生になってもやめない」と言うくらい好きになっていたし、『アラベスク』なんて、私はもう一生分聞いたと思う。
ところで先生が娘を生徒に持ったこの7年の間に、うちにはあと1人、心臓病を持った下の娘が産まれている。現在5歳のその子は産まれてから今日まで何度も手術をして入院し、その子に付き添わないといけない私は結構頻回に、そして長く家を空けるようになり、結果家は荒れ地になった。
そういうウチの事情を、タナカ先生は私の身内以外では誰よりもよくご存知だったけれど、それでもずーっといつも通り、娘への態度は全然変わらなかった。
退院直後の下の娘の酸素飽和度がダダ下りで「今から救急外来です!」なんていう大混乱の我が家にもいつもの笑顔でやってきて、現場に居合わせたその時はさすがに驚いてはいたけれど、それでも留守番を任された私の母の前で娘と40分いつも通りレッスンをしてお帰りになっていた。
「音楽が、娘ちゃんの良いお友達になるといい」
先生がそう娘に言い続けてひとつも叱らないでいたのは、先生にも娘さんが2人いて、その2人の娘さん達はもう立派に成人されているのだけれど、この『毎日戦場』の我が家で三つ編みのおさげの小さな女の子だった頃から7年、そろそろ大人の入り口に立ちつつある真ん中の娘をずっと見ていて、色々と思うところがあったからではないかなと、私は思っているのだけれど。
そうして迎えた今年の春の発表会、発表会と言ってもそれは先生の門下生10人ほどが市民会館の小ホールを借りて行う小さなおさらい会のようなもので、生徒の一番小さい子から始まって一番大きな中学生の子までがそれぞれに1曲披露する発表会の最後、私に先生の演奏を聞く機会が初めて巡って来た。
それはタナカ先生が「久しぶりの発表会でみんなとても頑張ったので私もいっちょう頑張ります」とトリに演奏してくださったもので、それを聞いた私はものすごく、何て言うのか、たまげた。
曲目は『愛の夢』
夕暮れ時からゲネプロを始めて夜、すっかり空が濃い藍色に代わった頃に始まった演奏会に合わせて選んだのだろう優しい音のその曲は『3つの夜想曲』という副題を持っていて、1811年にハンガリー王国に産まれた作曲家、フランツ・リストの楽曲だということを、もの知らずな私はあとから「あれは一体何だったの…」と調べて知った。
でも音響のために石の壁を使った、ちょっと珍しい造りのホールに置かれたスタンウェイのセミコンサートピアノから、他の子ども達の演奏した時とはぜんぜん違う音が鳴っているということだけは「リスト?『ラ・カンパネラ』の…あとはエート、モテ男だった人?」という絶妙に微妙な知識しか持ち合わせのなかった私にも、とてもよく分かった。それで
(この人は、私が思っていたような『ピアノの弾けるフツーの奥さん』ではない)
それを確信した私は、この発表会の後のレッスンの日、長いお付き合いの中で初めて先生に
「一体先生は、どこでピアノを修練されていたのですかね、大学はやっぱり音楽大学とかだったのですか、ということは素敵な、お花みたいなドレスを着てコンクールにお出になったりしていたとか?」
なんてことを聞いてみた。これまで私たちは互いの出自というか経歴のようなものを、偶然同じ北陸が出身地だということくらいしか話してこなかったのだけれど、私はどうしてもあの晩の『愛の夢』の秘密を知りたかったものだから。すると先生は
「この世界はスゴイ方は本当にスゴイので、私なんかとてもとても…」
そう謙遜しながら、北陸の田舎の小学生だった頃から毎週特急に乗って名古屋まで行って芸大の先生の指導を受け、大学は東京の私ですらその名を知っている大学のピアノ科に進学し、一時はプロのピアニストになることを夢見たけれど
「まあ、そういうのは本当に狭き門ですからね。フフフ」
ということをかいつまんで話してくれた。多分そのフフフの中に色々を、成功とか挫折とか諦観とか本当に色々なことを詰め込んで、結婚して2人の素敵なお嬢さんを授かって、旦那さんの転勤に伴い巨大なピアノを背負ってあちこちに引っ越しをして、そうして今日、近所の子ども達に全然怒らないでピアノを教えているのだって。
音楽は一生のお友達
先生はそれをピアノと共に半世紀以上の時間をかけて、音楽への愛憎とか山とか谷とかを全部乗り越え、そして成し遂げたのですね。と、それを私は言葉にはしなかったけれど。
ところで、私はこれまでピアノを弾けなかったし、この先も多分弾けるようにはならないのだけれど、19世紀に産まれて生きて、今生では生身の人として絶対に出会うことの無いリストという人を、あの晩以来なんだかとても好きになってしまった。音楽とお友達って、こういうのも含まれるのかしらん。